写真は、恵比寿の名門キックボクシングジムBUNGE会長の新田明臣氏と格闘家ファビアン氏と。新田明臣は家族ぐるみのお付き合いをしている親友でもある。いつも人の幸せを考えている美しい心をした元世界チャンピオン。こんなに心の澄み切った人はいないと思う。
さて、日曜日は参議院選挙の日だった。
アメリカも日本と同じく投票率の低さには長年あえいでいる。
テレビに映るアメリカ選挙は、盛り上がっている場面のみが取り上げられたものに過ぎず、アメリカでも多くの国民が選挙に無関心であることが長年の問題になっている。
そしてこの日曜日、ある講演家が、
「私は投票に行きませんでした。議員なんて誰がなっても一緒だからです」
と堂々と言っていた。
なるほど、耳障りは良い。
一見すると「冷静に世の中を見ている人」のようにも聞こえる。
だが私は、その言葉に、どうしようもない空虚さと、そして一抹の怖さを感じた。
都知事選でも、毎回「誰がなっても一緒だよ」という声をよく聞く。
本当なのか?
控えめに言っても、300万票を集める人物が知事になるのと、普通の有権者とでは、天と地ほどの違いがあると思うのだが。
「誰がなっても一緒」
「どうせ変わらない」
「社会なんてそんなもんでしょ」
こうした言葉は、思考の産物ではない。
思考の放棄の結果として生まれる、「思考のふりをした反射」である。
冷笑主義(シニシズム)とも言う。
もっと言えば、それは「自分には責任がない」と言いたいがために口にされる、逃避の言葉だ。
私は英語教育に携わる者として、こうした「思考なき言葉」や「冷笑主義」が人間の精神をどれほど鈍らせ、感性を麻痺させるかを痛感している。
英語教育の業界もまた、こうした「思考停止のことば」に満ちているのだ。
「楽しく英語を身につけましょう」
「ネイティブと話していれば自然に話せるようになります」
「聞き流すだけでOK」
「英語には敬語はないんです、通じればいいんです」
それらは、言ってしまえばすべて、耳障りの良いマーケティングワードであり、思考を止めるための麻酔だ。
だが、たとえあなたが初心者でも、本当に英語を自分のものとし、
相手と心で通じ合うレベルにまで達しようと思うならば、
そこに必要なのは「耳障りの良さ」ではない。
必要なのは、不器用でも、自分の頭で考えることだ。
誰がなっても同じか?
自分が投票しなかったことの理由として、それは適切か?
本当にそうなのか?
そういうことを考える力こそが、
言語習得においても最も大切な「ことばの芯」を形づくる。
英語を学ぶということは、
「とりあえず通じればいい」というレベルを超えて、
自分の思想・感情・志を、責任あるかたちで世界に伝える能力を持つということだ。
それは、投票所で自らの選択を行う行為と、何ひとつ変わらない。
だから私は、
「誰がなっても一緒」と言い捨てて”何もしない”人に、
「英語を話せるようになりたい」とは言ってほしくないと思っている。
なぜなら、美しいことばは、責任を持って生きようとする人間だけに宿るものだからだ。
「耳障りの良いことば」「冷笑主義」の向こうにある、思考停止の落とし穴。
そこから自らを救い出せるのは、他でもない、あなた自身の“考える力”だ。
そう私は思う。

升砲館金剛會 ショーンツジイ
プロイングリッシュスピーカー育成ディレクター


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