ショーンだ。写真は英国オックスフォード大学の図書館で、ラドクリフカメラと呼ばれる施設だ。学生時代に作ったラドクリフカメラの入館カードを、私は今も持っている。思い出がたくさんあるのだ。
今日は、少し人類史を見てみよう。
あまり知られていないことだが、世界で英語教育が盛んになってきたのが、1934年の英国ブリティッシュカウンシル創設以来なので、実はまだ90年も経っていない。
西洋文化では11世紀にいくつかの大学が創設され、本格的に学校教育が始まった。イタリアのボローニャ大学、英国のオックスフォード大学やケンブリッジ大学などである。
今から1000年以上前の話で、それらの大学が創設されたとき、日本は平安時代。
そのように、学校教育は学校教育でかなりの歴史があるように見える。
しかしながら、これは文化人類学者エドワード・T・ホールが述べていたことだが、現代の我々が「教育」という単語を聞くとき、私たちは学校教育を想像するのが常となっているが、他方、人類の歴史を見てみれば学校教育が始まるよりも遥か昔の太古から、私たちヒトは学んできた。
ヒトの脳が現在の形になったのは2万年前。
そしてヒトは今から約7万年前に音声コミュニケーションを始めたと言われている。
学校教育が開始されるよりも、何万年も前から、私たちヒトは話していた。
ヒトの音声コミュニケーション能力獲得と、学校教育(特に語学教育)というものは、歴史的にも地理的にも、意義的にも、根本的に違うものである。
私ショーンも社会科学者として知を愛する人間であるが、実際に私たちが音声コミュニケーション能力を身に付けるためには、学校教育は本質的に関係ない。
あなたは小中高校で体育の授業を受けて、サッカーが上手くなったのだろうか?
学校教育の体育の授業は、サッカーというものを体験させてもらう場であって、サッカーの技術を磨く場ではない。
あなたは、自分の母語を勉強して身につけたか?
日本語の喋り方を習ったか?
言語能力というものは、周囲の大人などから色々なスタイルの影響を受けながら、子供のころからひとりひとり自己流で身に付けるものだ。
習って身に付くようなものではない。
升砲館では、英語の使い手となるための考え方や理論などさまざまなテーマや課題に取り組むが、それもひとりひとりがそれぞれ自分の力で会得することを主眼に置いている。
「教わったことを忠実にこなしさえすれば良し」なんかにしていると、100年経ってもことばなんて話せるようにならないよ。
頭を使わないと。
世の中には、ちょっとお手本と違うだけで「自己流はダメ!」と言って、あなたの才能を打ち砕く教師があまりに多い。それが問題だ。教師たちの頭が悪すぎる。生徒のことを考えていない。
言うたびに欠点を指摘され続けたりなんかすると、言う気も失せるだろうし、心も潰されるだろうね。
自己流による音声コミュニケーション能力獲得は、人類7万年の歴史だ。
私は断言するが、ちゃんとした生身の人間のお手本、あとは観察力と受容力があれば、誰でも流暢で美しい英語が話せるようになる。
ヒトは自分で発見したものでないと、その人に残らないのだ。
一から十まで習えば良いという考え方が、あなたの創造力や才能を蝕む。
知識の詰め込みスタイルの教育は、言語能力の獲得用途には全く向かない。
英語ではheuristicというのだが、学びは「自分で発見すること」が一番大切である。
私はあなたが英語話者となるための全ての材料を提供することができる。
あとは、あなたが気づくだけだ。