ショーンだ。写真はカリフォルニアユニバーサルスタジオ前のハードロックカフェ。ロックギター界の革命児、故エディ・ヴァン・ヘイレンの巨大ギターが輝いている。
哲学者ジョン・デューイはこう言った。
「教育とは『教える』『教えられる』というものではなく、自ら動いて組み立てていくプロセスなのだ。」
前回の記事では、音声コミュニケーション能力獲得のためには、自己流が大切であると私は述べた。
人類が音声コミュニケーションを始めたのが、今から7万年前。人類が学校教育を本格的に開始したのは11世紀で、今からわずか1000年ほど前のことなので、歴史的にもヒトが音声コミュニケーション能力を獲得したのは、学校教育とは全く無関係であることがわかる。
身近なところでも、ヒトは未就学の幼児でも音声コミュニケーションができるので、学校教育を受けないとことばが喋れないわけではないことは明白である。
すなわち、ヒトの音声コミュニケーション能力の獲得というものは、学校教育的な「習ったからできる」というような領域ではない。根本的な音声コミュニケーション能力は、それぞれが自己流で、もしくは暗黙知(tacit knowing)で身に付けることがヒトの天命なのである。
では、自己流だけで良いのか?
良い。と、私は思う。
ただ、ひとりひとりの内面の自己流を活かすためには、外部的な要素も不可欠だ。
外部的な要素とは?
良い本、良い音楽、良い映画、良い仲間、良い環境など、あなたに影響を与える一切の外部要件だ。
社会性の強い種族である私たちホモサピエンスは、親や周囲の人の言葉遣いを受け継いだり、外部の影響を受けながら暮らす。
そうやって、私たちは個の「スタイル」を確立して行く。
動物の世界にもスタイルがある。例えばアフリカの雄ライオン同士では、たてがみの色の濃さで序列が決まる。たてがみの色が濃い方が、立場が上なのだ。
“Style is everything.”
— David Lee Roth (American rock musician: 1954 – )
「スタイルが全てだ。」
— デイヴィッド・リー・ロス(米国ロックミュージシャン: 1954 – )
上記のライオンの例で言えば、たてがみさえあれば良いというものではなく、たてがみの色が重要であることと同様に、英語は喋れたら良いというものではない。もちろん日本語も同様だが、あらゆる言語がそうであるように、私たちの実生活の中にはスタイルがある。
例えば、適切な敬語を使える人と、敬語が使えない人とでは、どちらが信用されるだろうか?
ことばのスタイルは私たちの生活に密着している。
先日、英語を身につけるためにはアメリカの田舎にホームステイするのが一番良いという意見を伺ったが、英語に慣れることができるという点では、私もそれに賛成だ。
しかし、アメリカの田舎にホームステイした経験のある多くの日本人を指導してきた私の経験から言えば、彼らの多くがブロークンイングリッシュの大きな壁に悩んでいる。ブロークンイングリッシュは文章自体も不自然であることが多いが、加えて、発音が大きな障壁となっている。翻訳アプリなどの進歩により論文はある程度は形にできたとしても、大学でのプレゼンテーションで苦しむ留学生が非常に多いのだ。
なんとか2年制のコミュニティカレッジを卒業できたとしても、4年制の大学や大学院への進学のときには、発音について担当教授から正直で辛辣な評価が加えられることが多い。アメリカでは発音がまずければ留学生が大学院のTA(指導助手)になれることは先ずない。留学時代にアメリカの大学院でTAを務めることのできた若かりし頃の飯田健教授(同志社大学)などは、実に稀有な存在だ。
また、東京在住のTY氏は、留学生時代にアメリカの大学で学部最優秀の成績を修めていたにも関わらず、当時さんざん発音のせいで苦渋を舐めた。現在TYは東京升砲館で流暢な英語話者として生まれ変わっている。
身体を使って英語発音をマスターすること、なりたい自分のビジョンを貪欲に追求すること。
その二つが非常に大切だ。
長くなってきたので今日はこれぐらいにするが、英語に関する悩みは、本当に人それぞれだ。
初心者の人には初心者の悩みがあるのと同様に、上級者の人には上級者の人の悩みがある。
人前で話すのが苦手な人も、すらすら英語が出てこない人も、ネイティブのような発音で話したい人も。
必ず解決法があるから安心してくれたまえ。