昨日は東京升砲館にM(渋谷区・男性)が加わった。有名な歯科医師であることに加え、長年バンド活動を続けていて(しかも本格的に)、知的な雰囲気とロックミュージシャンの魅力を併せ持ったM。
高校生の娘さんに内緒で英語を始めて、驚かせる計画だ。
M、がんばろうな!ペラペラになろう!娘ちゃんをアッと言わせよう!!!
昨日の記事では「英語を話しているときのあなたと、日本語を話しているときのあなたは、別の人格」ということについて触れたが、続きがある。
確かに、英語と日本語の切り替えというものはあるが、それは「抽象度の低い」領域での話なのだ。
五次元や量子力学の「時間や空間のない世界」のような領域というのだろうか、「抽象度の高い」領域では、英語や日本語といった区別はない。
「抽象度が高い」とはどういうことか?
「英語と日本語の区別がない」とはどういうことか?
例えば、抽象度の低い視点から見れば、英語と日本語は全然違う言語である。文字や単語も違えば、文法も発音も全然違う。
では、抽象度の高いところから見るとどうなるのだろう?
私たち人間は、英語、ロシア語、日本語、スワヒリ語、中国語など多種多様な言語を話しているが、宇宙人から見れば、さほど大差はない。すべて地球人の話していることばである。
神話で言えば、紀元前6世紀にバベルの塔が神に破壊される前。
万能感に酔う思い上がった人間たちを戒めるために、神はバベルの塔を破壊したあと、ヒトに色々な種類の言語を割り当て、意思疎通ができないようにお互いのことばを通じないようにした。
地球に多くの言語が生まれた原因が、神話ではそのように描かれている。
バベルの塔破壊以前の人間は、現代よりもっと抽象度の高いコミュニケーションを行っていたということが示唆されるのだ。
抽象度の高さは、チョムスキー的な言語心理学の用語を借りれば、meta-language(メタ言語)やmentalese(メンタリーズ)という理論となる。
実際問題として、子供のころから英語と日本語を使っている前期バイリンガルに属する人間からすれば、英語も日本語も大して変わらない。
英語も日本語も「等距離」なのだ。ソシュール言語学で言えば、signifié(シニフィエ)のこと。
「水泳は子供のころに覚えないと手遅れ」とよく言われるが、外国語も大人からマスターするのは難しいとされる。
なぜ、これだけ語学教育が普及しているのに、外国語のマスターが難しいのだろうか?
それは、近年の語学教育の「抽象度の低さ」にある。
「細分化されたサイエンスが、大衆を愚民たらしめている」
スペインの哲学者ガセット(1883 – 1955)は述べた。
あなたがTOEICの点数を上げても、英語が話せないのはそのためだ。
高校で国語の試験で100点を取っても、良いプレゼンテーションができるわけではないし、仕事の面接や、プロポーズで成功するわけではない。
アメリカ人の子供が英語を覚えていく過程と同じように、「抽象度の高い」領域から「英語」を扱うことにより、あなたはネイティブのように英語を聞き、話せるようになる。
「抽象度の高い」領域に気づくこと。
それで、あなたは英語をマスターできるのだ。