こんにちは、全国の私と同じ中年の皆さま❗️ショーンだ。
今日は、空虚感について書く。
文字が読めるだけでエリートと呼ばれた15世紀ぐらいまでの中世ヨーロッパ。一般人が一生で触れる情報量は、現代の新聞の朝刊1日分の量だった。産業革命前なので、一般人には自由も無いし、新しい発明物も市場に活発に出回ることはなかった時代。
それから比べたら、これだけ豊かにモノや情報に囲まれている今の世の中は、まさに別世界。
しかしながら、これは私が30歳ぐらいのときに始まったのだが、題名にもあるように、私は常に何か名状し難い空虚感を感じるようになった。
一見豊かな生活に見えるが、ナニか全体性が損なわれている。不均衡な感覚というか、、、
不安から逃れるように、私は色々なものを購入した。当時は健康器具も見たら欲しくなって、握力養成グリップからウェイトトレーニング用ベンチまで、おおよそ売ってる健康器具は全部買った。私はそれをthe list of regrets(後悔の一覧表)と呼んでいる。また、これこそ私の人生を変えてくれるような気がして、周囲の反対を押し切って人生2台目のぶら下がり健康器を買って自宅に設置したが、私は見事、購入したことに満足してしまいほとんど使わなかった。ぶら下がり健康器目当てで親戚の前田テイラー(現升砲館事務局)が私の自宅によく来て懸垂してくれていたのが唯一の救いだった。
買っても買っても物足りない。
欲求を満たしたところでハッピーになれない自分に、私は焦った。
知識を付けたり仕事をすることはもとから大好きだったので、私は、仕事に打ち込み、得たお金は更なる情報を得るためにどんどん投資した。私は走り続けた。私が今手にしている情報よりも、どこかにもっと決定的な優れた情報があるのでは?という焦りもあったと思う。当時は、まるで情報中毒で、情報を得ることに依存していた。
総じて、私の世界は何かバランスを失っていた。唯一、自分の生徒が目を輝かせて美しい英語を話してくれるときに癒された。
生物学的には生きていたかもしれないが、私は半分死んでるにも等しい状態だったかもしれない。
私はお金が大好きだし、お金がダメと主張したいわけではない。知識がダメだと言っているわけでもない。私は、ソクラテス以来の人類の知に対する敬意を持っているし、知を愛する人間である。しかしながら、当時の私は、心理学にも詳しい部類の文化人類学者でありながら、自らが知識に翻弄され過ぎて、ヒトという種が歴史的に根本的に繋がり基盤としている「全体性」との繋がりを断ち切っていたように思う。
当時の私は、なかなか気づけなかった。
私ショーンが復活できた理由は、武道家宇城憲治先生との出会い、行動科学研究所の岩田先生との出会い、亡くなってしまったが元弟子の松倉キャシーとの出会い、文化人類学の先人たち、長年家族ぐるみの付き合いをさせてもらっていた河合隼雄先生や、祖父が親しくしていた神話学者ジョゼフ・キャンベル先生などの存在だ。感謝しかない。
とにかく、あまりにもモノと情報が溢れ過ぎていて、近年は、それぞれの個人が均衡な世界を保つのが難しくなっている。
残念ながらモノと情報に溢れ過ぎた英語教育業界も、機能不全のような状態に陥っている。
少しキツい言い方になってしまうが、英語学習者の話す英語を聞いても、確かに音は出ているが、全体性を持つヒトが話しているように聞こえないことが多いのだ。
その人の個が見えないというか、空虚というか。
さらに、実は英語だけではなくて、最近は、日本の若い学生の子が話している日本語も、記号っぽくなり過ぎてヒトが話しているように聞こえないことがある。学生だけではなくて、社会人でもそういう状態でもがいている人もいる。
あなたやあなたの身の回りの人は大丈夫?
心が無いことを悩んでいる、オズの魔法使いのカカシ状態の現代人というか。。。
進化心理学の流派の人は、これはヒトの進化であると言うかもしれないが、そんなの知るか❗️
本人がこの状態に満足しているのであればまだマシかもしれないが、空っぽなコミュニケーションをしていることを、自分で気にしている大人の人もいる。
英語を学んでも学んでも、何か空虚だ。何かが物足りない。生を願う人間の根本的欲求が満たされない❗️
子供のころに求めていたような英語話者の自分になりたい❗️何かぎこちない英語から卒業したい❗️
そういう人たちへの支援が私のライフワークなのだ。
あ、ちょっと長くなってきたので、今日の【中年の主張】はこれぐらいにする。ごめんね。
では、私と同じ中年の皆さま、今日も笑顔で楽しく日常の美を感じて生きましょう❗️
先人たちが伝えてくれた、気持ちの良いコミュニケーションを良しとする文化を守ろう❗️
今日も皆んなで感動しよう。