写真は京都東山THE SODOHで、義息小柳デニスと。一緒に行動していることが多いので、一緒の写真が実に多い。
さて、昨日の投稿の続編のようなものになるが、今日は「英語に敬語がない」という危険な誤解について書く。
「英語には敬語がない」という日本でよく聞く言説は、言語の表面的な形(たとえば動詞の活用の違い)だけを見て、その背後にある対人距離のマネジメントという本質を見落とした、非常に危険な誤解だ。
アメリカ的なカジュアルさは、決して「無作法」なのではない。
フレンドリーな礼儀正しさこそが、多様な背景を持つ他者と常に隣り合わせで生きる社会の中で、衝突を避けながら友好的な空間を維持するために発達した、高度な知略となっているのだ。
言い換えれば、Strategic Politeness(戦略的な礼儀)だ。
彼らは常に言葉の中に、
「私はあなたのテリトリーを侵しません」
「あなたを尊重しています」
というサインを織り込んでいる。
“Would you mind…”
“I was wondering if…”
といった婉曲表現の多用は、その典型である。
カジュアルな装いの中に、実はしっかりとした防波堤としてのマナーが組み込まれている。
多くのアメリカ人は、普段の会話の段階から、少し目上の相手にもそのまま対応できる程度の気遣いを自然に身につけている。
他方、日本には「気を遣わないこと=信頼の証」という独特の文化がある。
いわゆる「ウチ」の関係の中では、作法を省略することが親密さの表現になる。
それ自体は悪いことではない。
しかし問題は、その感覚を外の世界にまで持ち込んでしまうときである。
異質な他者と接する場で、無意識のうちに「身内ルール」を適用してしまう。
その結果、相手のテリトリーを土足で踏み荒らしてしまうことがある。
平和ボケ(paralyzed in peace)と呼べるかもしれない。
相手を尊重する気遣いが欠けた言葉は、多文化社会ではしばしば「攻撃」や「傲慢」と受け取られる。
文法が正しくても、関係を築くためのマナーが欠けていれば、深い信頼関係に至る前に拒絶されてしまう。
これが、現代の日本人が直面しているコミュニケーション不全の本質の一つではないかと私は思う。
YouTubeなどの動画で「わかったつもり」になっただけで、リアリティを知らない人が増えている。
さらに、ソーシャルメディアの発達により、自分と異なる考えを持つ人間とリアルで向き合う機会は減っている。
世の中を舐めているような人間(naive: 世間知らず)は昔から一定数いるが、これからは、さらにその人口は増えていくのかもしれない。
ただ私は、人類の偉大さを信じている。
本当に必要な力を持つ人は、結局は現実の中で鍛えられていく。
そして、そうでない者は、静かに淘汰されていくのかもしれない。
言語とは、単なる文法ではない。
それは文明が他者と共存するために編み出した知恵なのである。
今日も学び続けよう。

升砲館 金剛會 ショーンツジイ
プロイングリッシュスピーカー育成ディレクター


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