英語は「通じればいい」で、本当にいいのか?
ピアノの先生は、『トルコ行進曲』を弾きたくて教室を訪れた生徒に、
「少しトルコ行進曲らしく聞こえれば、それで十分ですよ」
とは言わないだろう。
生徒が望んでいるのは、『トルコ行進曲』を美しく弾けるようになることだからだ。
字が上手くなりたくて書道教室に通う人に、
「完璧じゃなくても、読めればいいんですよ」
と先生が言うだろうか。
それも少し変な話だ。
近年、
「世界には英語ネイティヴより非ネイティヴの英語使用者の方が多い。だから発音なんて学ぶ必要はない」
という説を耳にすることが増えた。
英語の指導者まで、そう言っている。
わたしは不思議に思う。
なぜ、そんな quantitative(量的)な視点だけで、人間の学びを決められるのだろう。
では、なぜ親は子供をピアノ教室へ通わせるのか?
統計的に見れば、世の中にはピアノを上手く弾けない人の方が圧倒的に多いのにね。
だったら、ピアノなんて練習しなくていいのか?
そんなはずはない。
大人になってから楽器に挑戦する人もいる。
その人にとっては、それが人生の大切な夢かもしれない。
学ぶ人の目標を、教える側の都合で下げてはならない。
英語も同じなのだ。
好きな人にとって、発音ほど楽しい英語学習はない。
そして、英語の使い手として、ネイティヴのように発音できることは最高にすばらしいことなのだ。
だからこそ、指導者が最初から「通じればいいんです」と、その人の可能性に蓋をしてはいけない。
「機能する最低条件」と「美しく熟達すること」は同じではない。
升砲館は、ネイティヴと同じ音で英語を話したい人のための道場である。
ただし、目指すのは誰か別の人間になることではない。
表面的にアメリカ人の真似をして、変にイキった英語を話すことでもない。
発音を熱心に学ぶほど、かえって「ネイティヴ信仰みたいに見られる」と悩む人もいる。
しかし、本当に自然な英語なら、そんな違和感は生まれない。
正確さと個性は、対立しないのだ。
たとえば、書道。
同じ字を書いても、百人いれば百通りの文字になる。正しい字を書けることと、その人らしい字を書くことは、まったく矛盾しない。
英語の発音も同じだ。
升砲館が目指しているのは、
あなた自身のまま、ネイティヴと同じ音で、自然な英語を話すことだ。
では、人によって「その人らしさ」は、どれほど違って現れるのだろう。
以下に並ぶのは、立場も思想も異なる6名の政治家たちの文字である。
https://shohokan.online/handwriting/
同じ日本語を書くのに、これほど違う。
あなたはどう思う?

升砲館 ショーンツジイ
プロイングリッシュスピーカー育成ディレクター
文化人類学者




