SHAWN TSUJII'S

アメリカ人はなぜ自分の会社のTシャツを誇りを持って着るのか

写真は南カリフォルニア大学。
ロサンゼルスにしては珍しい雨の日だった。

心理学者の叔母が、ここで名誉教授を務めている。

さて、アメリカに行くと、ある光景に気づく。

自分の会社のロゴが入ったTシャツを、彼らはごく自然に、そして誇らしげに着ている。
それは仕事中だけではない。休日でも、街中でも、カフェでも同じである。

まるでそれが、自分のアイデンティティの一部であるかのように。

他方、日本ではどうだろうか。

自社のロゴが大きく入ったTシャツを、休日に着て街を歩く人はほとんど見かけない。
むしろ、それを少し気恥ずかしいものと感じる人すらいるだろう。

こうした違いについては、近年メディアでも語られるようになってきているが、さらに文化人類学的に見ればアメリカと日本では、以下のような対比がある。

アメリカ
・仕事社会=契約の集合体(プロ集団)
・ルールや理念が先にある
・個人はその上に乗る
すなわち、忠誠の単位が「組織」となる。

日本は
・仕事社会=共同体(ムラ)
・ルールより「空気」
・個人より関係性
忠誠の単位が「人間」となる。

言い換えれば、
アメリカの愛社精神は、愛「組織」精神であり、
日本の愛社精神は、愛「人」精神である。

アメリカと日本には「組織(理念)へのコミットメント」と「人(人間関係)へのコミットメント」 という大きな違いがある。

アメリカでは、組織を「特定の目的(Mission)を達成するためのチーム」と捉える風潮が強い。
よって愛社精神は、その会社のビジョンやロゴが象徴する「価値観」に向けられる。

Tシャツを堂々と着るのは、「私はこのクールな理念を持つ集団の一員である」という自己アイデンティティの表明に近い。

日本では、事情は異なる。

多くの場合、愛社精神の中核は「この人のために頑張りたい(上司や同僚)」という人間関係に基づく感情にある。
ゆえに、尊敬できる人物がいなくなれば、組織への愛着もまた揺らぐ。

会社そのものではなく、そこにいる「人」に対して忠誠が向けられているからである。

この違いは、「公」と「私」の関係にも現れる。

アメリカ人にとっての社名入りグッズは、自分のキャリアという「個」の物語における「現在の所属(ステータス)」を誇示するアイテムだ。

会社に自分を捧げているのではなく、自分が選んだ素晴らしい組織を「着こなしている」という感覚に近い。

日本企業における社歌や社章は、個人のアイデンティティを会社に「同化」させる儀式的な側面がある。

滅私奉公とも呼ばれるが、これは「公」が「私」を飲み込む形なので、プライベートで会社のロゴを着ることは、休みの日まで「公」に縛られているようで、敬遠される傾向が強い。

また、意外かもしれないが、雇用の流動性が高いアメリカの方が、「今、ここにいる理由」を明確にする必要がある。

例えば、嫌なら辞められる環境で、あえてそこに留まっている自分を肯定するために、「この会社は最高だ」というポジティブなアピール(愛社精神の表出)が強くなる。

他方、かつての日本のように「一度入ったら定年まで」という前提があると、愛社精神は「あって当たり前」となり、わざわざ外に向けて発信する動機が存在しない。

そのように「組織への忠誠心」という意味では、アメリカでは論理的かつ自発的に強い愛着を持っているケースが多い。

アメリカでは、転職は普通のこと(=忠誠なさそう)だが、在籍中は強く組織にコミットする。
日本では、長く勤める(=忠誠っぽい)が、理念には忠誠していない。

かつての国鉄一家の例のように、日本人の愛社精神は、温かい「家族的な情愛」に近いものだった。

しかしながら、現代のドライな日本のビジネス環境では、その「人」の繋がりが希薄になった分、日本企業の愛社精神は空洞化しているようにも見える。

ひとことで言えば、
アメリカ人は「組織のために働く」という意識が強く、
日本人は「人のために働く」という意識が強い。

どちらが優れているかという問題ではない。

ただ一つ言えるのは、
組織の理念に忠誠を持つ者と、
人間関係に忠誠を持つ者。

両者の間には、「発言や行動の一貫性」に差が生まれる。

この行動規範の違いは、グローバルな環境において大きな「差」が生じる。

ここで重要なのは、どちらかを否定することではない。

自分がどちらの構造の中で生きているのかを、自覚することだと思う。


升砲館 ショーンツジイ

プロイングリッシュスピーカー育成ディレクター
文化人類学者



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