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エッセイ『もし升砲館に出会っていなければ』門下生 Nao(京都市・20代・女性)

昔、英信流の居合道をやっていた。もう刀は持っていないが、私は日本の刀剣が好きだ。この写真は、以前奈良の布都正崇鍛刀場を見学させてもらった時のもの。伝統を引き継いでいる刀鍛治師の思想や技術に間近に触れさせてもらえてホントに感動した!

さて、以下は私の英語道場升砲館の門下生Nao(京都市)から寄せられたエッセイ。

彼女は「日本語喋れたの?」と言われるレベルに至っている20代の大学職員である。

英語は単なる語学ではない。精緻に作り上げることのできる芸術品であり、あなたの話す英語はあなたそのものなのだ。

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『もし升砲館に出会っていなければ』

もし升砲館に出会っていなければ、日本人にネイティブのような英語を話すことはできないのだと思い込み、私は英語を話すことを諦めてしまっていたかもしれない。

そうでなかったとしても、ネイティブのように話すのではなく、日本人の身体の使い方で日本語英語を話せばよいという風説にのせられ、開きなおっていたかもしれない。

もしくは、日々日本語を話しているために、英語を話そうとしても気が付かないうちに日本語の話し方を当てはめてしまう自分自身に気が付かず、聞き取りづらい英語をペラペラ話していたかもしれない。

しかし、升砲館に出会うことのできた私は知っている。日本人でも、ネイティブ以上に人を感動させる英語を話すことができるということを。聞き取りづらい英語をペラペラと話された時に、それを理解しようと必死になるその苦痛を。また、呼吸のあった会話ができた時の嬉しさと楽しさを。英語を使い、息のあったコミュニケーションを取ることが楽しいということを知っているのである。

言葉を話すのに切っても切れないのは、身体の使い方であることを升砲館は教えてくれた。表面的に音を真似ても、筋肉の動きが違えば、それは「何か」が違うのである。その「何か」は時に壁を感じさせる。コミュニケーションにおいて、「何か違う」という感覚を生み出すのだ。

話し方、ひいては筋肉の使い方の違いに一番敏感なのは、毎日その文化圏の筋肉の使い方でその言語を話しているネイティブである。関西以外の人が聞きかじった関西弁を話そうとすると、関西人にはすぐにわかる。何となく気持ち悪いからである。

何となく話し方が気持ち悪い人と、心地よい会話ができるだろうか?また話したいと思えるだろうか?例え良い会話ができたとしても、同じ筋肉の使い方をする仲間であるとは認められないであろう。それは、関西弁を表面的に真似ているだけの人であり、変な話し方をする人なのである。

もし升砲館に入門していなかったら、日本社会にはびこる欺瞞に気づかず、日本語英語に飲み込まれていただろう。日本人の話す英語は日本語英語とならざるを得ないのだと思い込み、自分には英語を話すことはできないと信じ込んでいたかもしれない。

升砲館は、私の英語人生の救世主と言っても過言ではないのである。

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Nao、いつもがんばってる。立派やで!お母様にまた会いましょうとお伝えしておいてくれ。


ショーンツジイ

文化人類学者
英語道場 升砲館 館長


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