こんばんは、ショーンだ。11月の東京升砲館の月例稽古を終えて、今、京都に戻ってきた。今日は暖かく美しい日で、大変気持ちが良かった。
なぜか不思議な多幸感に包まれていた。
電車も看板も、なぜか見るもの見るもの全てが美しく見えて、私は「この世ってこんなに綺麗だったんだ!」と静かに感動していた。
ジドゥ・クリシュナムルティやエクハルト・トーレの言っていた「今に生きる」とは、こういうことなのだろう。
さて、私の文化人類学の師匠、構造人類学の巨人ジョイヘンドリー教授が来日され、先週、升砲館の稽古に参加された。
イギリスの大学院時代に教えを乞うて以来、もう19年以上師事している。
先生は、もともとスコットランドのご出身で、現在はオックスフォードブルックス大学の名誉教授だ。
私のイギリス式の伝統的な社会人類学の知識は、全て教授の元で身に付けた。
とにかく、大尊敬しているジョイ・ヘンドリー教授を、先週、升砲館の稽古にお迎えできることが、私はとても嬉しかった。
私は、少し緊張した。
人類学者は、観察のプロ中のプロなので、稽古中の私のすべての振る舞いや発言を見られているからだ。
すごく厳しくて、すごく温かい。それがジョイヘンドリー教授だ。
今、思い出したが、私の大学院時代、教授ご自身が学生のころに書かれた修士論文をタクシーの中で見せていただいたことがある。
目が釘付けになった。
異常なほどのページ数の、見たことないぐらいの分厚い論文。
そして、内容がすさまじい!
文章の美しさに加え、質も量も、修士論文の域をはるかに超えている。
どう見ても博士論文以上というか、高潔極まりない清廉たる一大作品がそこにあったのだ。
ありえない、、、教授は20代の若さでこんな化け物のような論文を書いていたなんて!
もちろん最初から教授のことは尊敬していたのだが、一流のプロ学者の生々しい力を見せてもらい、自分が虫ケラのように感じたものだ。
当時、年齢の割にはまあまあ良い線行ってると自分で思っていた私は、井の中の蛙だった。
英語で言うと、a big fish in a little pondだ。
当時、自分はまだ若いから実力は足りないかもしれないが、情熱では負けないという自信をもっていた。
でも、ジョイヘンドリー教授の修士論文を見たら、「情熱では負けない」なんて考えていた自分が恥ずかしくなった。
自分の情熱なんて、先生の人類学にかける情熱の足元にも及ばないではないか。。。
一生かけて、少しでも先生のレベルに近づけるように学んでいきたい。
今も毎日、そう思っている。弟子として、ジョイヘンドリー教授の名に恥じない自分でありたい。
学ぶことは楽しい。
成長するのが楽しいのだ。
成長を止めたら、そこで人生終わりだぞ。
そう思って、お前もがんばれ!