写真は、フィリピンセブ島の子供たちと。升砲舘と一般社団法人クアドラヴィータで教育支援をしている貧困層の子供たち。ひとりひとりが本当に一生懸命に生きている。彼らの笑顔がまぶしい。支援している大人の私たちが、逆に彼らに元気をもらっている。
さて、臨床心理学者であり、ユング心理学の大家、そして文化庁長官だった河合隼雄先生。この7月で、先生が逝去されて18年が経った。
私の母が若い頃から河合先生ご夫妻と親しくさせていただいていたご縁もあり、辻井家と河合家は長年にわたり、家族ぐるみのお付き合いをしてきた。
私自身も、若い頃から先生に影響を受けてきた。
とくに忘れられない先生のことばがある。
「あんな、日本はな、大人になりたくてもならせてもらえへん社会になってしもてるんや」
言葉は柔らかいが、その奥にある憂いは深かった。
成人式は着物屋と写真館の営業イベントに成り果て、もはや通過儀礼としての厳かさも、共同体との契約としての意味も失われてしまった。
今まで文化人類学者が世界中の文化の中で見出してきた「通過儀礼(rite of passage)」つまり、“子供から大人へと脱皮する”という精神的プロセスが、日本の社会から消えつつあるという指摘だった。
私の目から見ても、日本ではかろうじて卒業式(泣く場面)や結婚式(父親が娘の手紙を聞いて涙する場面)などに、通過儀礼らしき名残りが見られた。
しかし、それらでさえも今や、参列の義務感や、演出とBGMに支配された、形式だけのイベントと化している。
つまり、
大人になりたくても、ならせてもらえない社会。
それが、私たちが今いる日本の正体である。
「子供っぽさ」が称賛される時代
この風潮は、英語教育の現場にも深く浸透している。
巷にあふれる英会話教室の広告には、「楽しく」「気軽に」といったコピーが並ぶ。
外国人の先生と形式だけのレッスン。はにかんだ顔で小声による発音練習、できていないのに褒められる。真剣さはどこにもない。うまくならないよ。
もちろん、楽しむことは悪ではない。
文化人類学的にも、文明は「遊戯」から始まったというロジェ・カイヨワやホイジンガの説があるし、私も彼らの学説を強く支持している。
だが、楽しむことが「英語を学ぶための唯一の道」のように語られ、
真剣さや厳粛さ、そして知的な緊張が排除されるようになったとき、
それはすでに“教育”ではない。
「できないこと」が「できる」ようになるから楽しいのであって、
できるようにならないのに「楽しい」というのはまやかしだと思う。
真剣にがんばるから「楽しい」のにね。
今の英語教育は、“学ぶ主体”を「大人」として扱っていない。
むしろ、ずっと「子供っぽい大人」のままでいてもらうことを前提に設計されている。
悲しいことに、多くの大人たちが「真の大人になること」を避けるようになっている。
英語を本当に身につけようとするならば、
必要なのは「表面的な遊び心」ではなく、「真心」や「魂の在り方」だと思う。
発音を整える。
声を深くする。
言葉の意味と音と呼吸を一致させる。
これらは、単なるスキルではない。
人間として“大人になる”ことを要請されるプロセスだ。
すなわち、英語を身につけるということは、一つの通過儀礼である。
それは「日本語で生きてきた自分」という世界からいったん離れて、
異なるリズム、異なる論理、異なる空気の中で“新たな自分”として目覚めるプロセスだ。
だから私は、升砲舘という道場を通して、
英語を「大人の言語」として、
真剣に、厳かに、そして魂を込めて教えている。
大人になるとは、何も“偉そうになる”ことではない。
むしろその逆である。
静けさの中に凛と立ち、言葉を慎み、沈黙の意味を知ること。
そういう人間にしか、英語は決して本当には宿らない。
なぜなら、言語とは「知識」ではなく「人格」に宿るものだからだ。
世の中がどれだけ“子供っぽさ”を賛美しようとも、
私は、大人へと向かうヒトの内なる知恵を信じ続けたい。
そう思うのだ。
英語を学ぶことは、
大人になるという旅そのものである。
セブ島の貧困層の子供たちは、大人を目指して懸命に生きている。
真心を大切にするあなたへ

升砲館金剛會 ショーンツジイ
プロイングリッシュスピーカー育成ディレクター


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