写真は、ウェスティン都ホテル京都で先日行われた、母校立命館高校の同窓会。2個上の永遠のロッカー、永遠の不良、今宿先輩と。10代の頃から、いつまでもすごくカッコいい先輩なのだ。私は今宿先輩のことを、立命館高校のミック・ジャガーと思ってる。
さて、哲学者ベルクソンやハイデガー、西田哲学などで論じられる時間の概念。古くはアリストテレス、最近ではシュタイナーや量子力学で論じられる時間論。
あなたが大人から外国語をマスターするためには、時間の概念を知ることが非常に大切だ。
日本語と英語では時間の概念が根本的に違うのだ。
言語学的にも、構造論的にも。
文化人類学者エドワード・T・ホールは言った。
“People from different cultures not only speak different languages but, what is possibly more important, inhabit different sensory worlds.”
『異なる文化に属する人々は、ちがう言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、ちがう感覚世界に住んでいる。』
もちろん私たちはヒトとして共通していることはたくさんあるのだが、英語世界と日本語世界では、時間の感覚が全く違う。
欧米文化のモノクロニックな時間体系(同時に複数のことをしない文化)と、日本文化のポリクロニックな時間体系(同時に複数のことを行う文化)の対比のことではない。それらは大変興味深い事柄ではあるが、そのような共時的な対比ではなく、日本語文化と英語文化の間には、もっと通時的で「決定的な違い」があるのだ。
その違いとは?
アメリカ人にとっては当たり前過ぎて、アメリカでは誰も論じない。
日本人にとっては想像すらしたことのない未開の領域で、誰も論じない。
この時間の概念の違いは、両文化の間にひっそりと横たわっている。
構造論的に言えば、天皇制と王政の違い。
時間の認知を変えたとき、あなたの英語は突然ネイティブのようになる。
時間の認知を変えなくては、あなたの英語のイントネーションもリズムも日本語領域から抜け出ることはない。
認知を変えよう。
あなたのすぐそばに、英語の並行世界があったことにあなたは気づくだろう。