こんにちは、ショーンだ。今日は論理的思考の大切さについて書く。
論理的思考が非常に重要。
英語論文の執筆に慣れている人など、知っている人は知っているだろう。英語は、文章と文章ひとつひとつが論理的に繋がっていること、しっかりした根拠を示すことや、事実に基づいた議論というものが、大変重要視される。ソクラテス以来2000年以上の伝統だ。
そのような論理的思考というものが、学術論文では当然のこと、子供から大人まで、家族同士や友達同士などの日常生活の会話の中でも大切にされていることが、啓蒙主義の影響の強い西洋文化圏の大きな特徴でもある。
夏目漱石の小説『我輩は猫である』に登場する、歯ぎしりをしていないと強情を張る下女「おさん」の論法を覚えている人はいるだろうか?
大きな歯ぎしりで周囲に迷惑をかけているのにも関わらず、「私は生まれてから今日に至るまで歯ぎしりをした覚えはございません(だからその事実は存在しない)」という下女「おさん」の主張。このように、道理の根拠を「事実」に基づかせるのではなく、自分の「印象や感情」を決定的な根拠として主張するのが特徴の論法。
上記は100年以上前、明治時代に書かれた小説『我輩は猫である』の中での一節だが、そのような議論の方式は、今日、令和の日本でも散見される。
特に頭の固い年長者に多い。
しかも自分では論理的かつ柔軟に話しているつもりの老害が多く、始末に負えない。
そのような独りよがりな主観に基づく日本式スタイルの議論法は、世界では一切通用しない。
木っ端微塵。
言い方はキツいが、「発音悪くても世界で通用するもん!」「銀座のお寿司より、コンビニのパック寿司の方が美味しいもん!」という主張と同じ、世間知らずな考え方でしかない。
世界基準で議論できる力、客観的に見て辻褄の合った論理的整合性が必要だ。
日本の子供たちの未来のためにも、大人が変わらないといけない。
さて、本日は、9月初旬にも寄稿してもらった門下生のA. Fujitaからのエッセイを紹介する。
A. Fujitaは、長年シリコンバレーの有名企業の日本支社で活躍しているやり手の者だ。
「海外の人と対等に議論できる英語を話せるようになりたい」門下生A. Fujita(外資系企業勤務・神奈川県)
20年以上前に入社当時の上司に言われたことをよく思い出す。「この会社で日本法人が生き残る為には、アメリカ人と対等に議論できる英語が必要になる。でないと、ほかのアジアの国に今の日本のポジションを取って代わられる。我々は本社から英語で言われたことをただ実行するのではなく、我々が現場から得た見識を本社に英語で示し経営を議論することが大事になってくる。そのレベルになると、人類学にたどり着く、お互いの文化や考え方の違いを理解することが大事になる。敵を知り己を知らなければ議論は出来ない。」
担当者の時は、メールでやり取りできるレベルの英語で良かった。マネージャの時は業務連絡レベルの英語、英語で指示を受け指示通り業務行ったことを報告できればよかった。このレベルまでなら、多少英語が乱れても単語を並べるだけで何とかなった。日本語なまりでも問題なかった。相手もこちらのレベルに合わせて、ゆっくり優しい英語で話してくれたし、何とか理解してくれた。
しかし、もう一段上がった時に議論ができるレベルの英語が求められ始めた。上司の言葉が身に染みる。議論が本題に入り白熱し英語のペースが上がってくると英語についていけない、理解が中途半端になり、議論にもテンポよく入っていけない。伝えたいことが喋れない。理解してほしいことが理解されない。建設的な議論ができない。一方的に議論で負けていく。日本の主張が無視されているように感じ部署内に不満がたまる。他方、アジアのビジネスエリートは英語を巧みに使いこなし着実に足場を固めている。日本は沈むばかり。まさしく、当時の上司が言った通りだった。
この状況を打破するためには、ネイティブと戦える英語が必要になった。ネイティブが考え話すように英語を使い、会議の場で支配権を取り、自らの意見を堂々と主張し通していく。そんな英語を喋れるようになりたいと思った。その為には、ホテルや飛行機の予約の取り方、顧客からの注文の取り方、会議の時間の設定の仕方といったスキットを覚えるような表面的な学習では足りない。もっと根本的なところから、ネイティブの英語話者が親や周りの環境から英語を学ぶように英語を身につける必要があると思った。
それは、升砲館の理念だった。升砲館が育てたいと考えている英語話者と全く一緒だった。
だから、私は升砲館で稽古に励んでいる。
また、同じような目標の仲間と一緒に日々成長していると思うと稽古がとても楽しい。
A. Fujita(外資系企業勤務・神奈川県)
Aよ、ありがとう。入門以来、すごく進歩しているぞ。
どんどん上がってくるよ。これからも、突き進んで行こう!